実を結ぶ木、結ばない木

御 言 葉

 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。

  マタイによる福音書  21:19


 いったいイエス様はそのお力をいちじくの木をのろうために用いられたのでしょうか。イエス様は神からいただいた力を、人を癒し、救うために用い、けっして傷つけるためには用いられていません。罪人にやさしく語りかけ、赦しを与えようとされています。本日のような箇所を読みますと私たちはショックを受けます。ですが、イエス様は見せかけだけの行為、本来の目的を果たしていない行為だけは厳しく戒めなさいます。葉だけは茂って、実を結んでいないいちじくの木を見つけて、形式的なことばかりをして本質的なことをしていないと、結局は命を失いますよと、いちじくの木を枯らせて弟子たちの前でそのことお示しになったのです。本質的なこと、それは神の私に対するみむねを果たすことです。この言葉をいただいたと信じたならばそれを実践することです。そして、聖書を読みますと、私たちが出来得ることをするのだと努めていますと、その成果のよしあしは問われていないことに気が付きます。とにかくいただいたお金で何もしないで、地に埋めたままであることを非難されます。努めていますと報いはそれなりにあるのです。(マタイ25:14~30)神を信頼し、いただいたみむねを果たそうと努めるならば、いちじくの木を枯らしてしまうほどの不思議な業、すなわち山をも動かすほどの業もなし遂げられて、私たちは神のためのご用を果たすのです。いちじくが実を結ぶために造られたように、神は私たちをそのご用を果たすためにお造りになったのです。

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