霊に導かれて荒れ野へ

御 言 葉

 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

   マタイによる福音書 4:10


 バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、「これはわたしの愛する子」との祝福の声が天から聞こえ、その後イエス様は霊に導かれて荒れ野に向かい、悪魔からの誘惑を受けます。愛する子ならば、試みに合わないように苦しい状態から救ってくださるところにこそ、神の御心があるのではないかとつい思ってしまいます。しかし、神はイエス様を荒れ野に導いて試みに合わせ、新しい時代の神の子が(旧い時代の神の子はイスラエルの民です)どのような方であるかを私たちにお示しくださったのです。イエス様は悪魔からの誘惑を神の御言葉を引用することによって退けて勝利し、自分にとっての主すなわち自分を支配する主権者が誰であるかを宣言なさったのです。それはイエス様に結びつく私たちにとっても、主権者がもちろん悪魔ではないし、また私たち自身でもないし、神であることをお示しくださったことでもあります。私たちは神の恵みに対して喜び感謝しますが、ともすれば自分に都合がよい時にだけそうしがちです。判断するのはあくまでも自分であり、感謝が自分にとってどうであるかということからなされています。主権がどこまでも自分にある場合が多いのです。キリスト者にとって大切なことは、何をもって喜びとし、感謝しているかということです。他人の目から見て栄光の道を歩もうが、苦難の道を歩もうが、主権者が神であり私はそれに従い得ている、喜びはそこから湧いてくるのです。旧い神の子は40年の荒れ野の漂泊において途中で神の愛を疑いましたが(それでも神はマナを降らせて養ってくださいました)、新しい時代の神の子は従い続けることが出来たのです。

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