賛美のできる者は幸せ

御 言 葉

 陰府(よみ)があなたに感謝することはなく、死があなたを賛美することはないので、墓に下る者は、あなたのまことを期待することができない。

   イザヤ書 38:18 


 不思議に思われるかもしれませんが、死後の復活への信仰は旧約聖書の中にはほとんど見られません。新約聖書の時代に近づいて初めて現れます。したがって、紀元前8世紀のユダ王国(北のイスラエル王国は既に滅んでいます)の王様ヒゼキヤの時代には復活信仰はまだありません。死後は陰府に下り、神の光の届かない所で、生気のない影のような存在としてあり続けると思われていました。そこで、重い病気にかかった王ヒゼキヤは死からの救いを求めて神に祈ります。死んで陰府に下るなら、もう栄耀栄華の暮しはできなくなる、だから救ってください。彼はそのような祈りはしません。死んでしまえば、神を賛美することができなくなる、いのちある者だけが神に感謝を述べられる。ですから、死から救い、賛美と感謝ができるようにしてほしい。王はそのように祈るのです。そのように祈る背景には、確かに自分は神に愛されている、神の慈しみのまなざしは自分に注がれているという経験があるからです。人が自分は愛されていると実感出来る時、賛美が口をついて出るのは自然なことです。賛美が出来る時、人は幸せな時にいると言っていいでしょう。ひとたび神の慈しみのまなざしを経験した者は、人は偶然に生まれ、偶然に死ぬのではない、すべてを包みこむ大きなもののまなざしのもとに生きている。人はその包みこむものとの交わりの中に生きる。それこそが人の造られた目的なのだ。賛美し交わりの中に生きてこそ人は幸せだ。そのようことが分かってきます。王もそのことを知っているので、病の床に就いていても、もう一度あなたを賛美させてほしいと祈るのです。

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