御 言 葉
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。
コリントの信徒への手紙 Ⅰ 6:12
私たちは罪人だとよく言われます。しかし、そう指摘されてこの私の内側をよく見てもたいして罪人のようには思われません。多少は嘘をつくこともありますし、他人を押しのけてでも欲しいものを手に入れるというくらいのことはしでかしてきましたが、それでも罪人だと言われますと、何かしら自分の罪は曖昧にしておきたい気持ちがあります。ですが、神の目から見ますと私たちは救いがたいほど罪人なのです。あのアダムとエバがエデンの園の中央に踏み込んで禁断の木の実を食べて以来、人間は自分が神のようなものであり、自分の力で自分を救えると思い込んできたのです。その結果はどうだったでしょう?この私は相変わらず数々の煩いに悩まされ、世界は混乱と紛争と差別が絶えません。これが自分で自分を救えるつもりの人間の業なのでしょうか。十字架を仰げば初めて私たちの罪の深さが分かると言われます。そうなのです、私たちの罪は自分ではそれほど自覚していませんが、神が御子イエスを犠牲にしなければならないほどの根深いものだったのです。イエスの犠牲によって、私たちは自分で自分を救えるつもりでいた奴隷の状態から買い戻されて、アダムとエバが禁断の木の実を食べる前の状態、すなわち神に造られたものにふさわしく、神に従い神に仕えるものにしてくださったのです。新しい人間になったのです。神の他に何ものにも縛られない自由の身になったのです。御子の代価によって与えられたこの自由をどうして益にもならないことに使えましょうか。