イエス様が来られたという出来事

御 言 葉

 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

         ルカによる福音書 24:32      


 イエス様は十字架にお付きになって三日目に復活なさいました。生前のお姿そのままでよみがえられたわけではありません。よみがえりならば、時が来てまた亡くなることでしょう。復活とは「霊の体」(コリントⅠ 15:35~)を持って永遠に生きておられるということです。不可能な事のない神様のお力で、復活なさったのです。神様の側の出来事ですから、私たちが人間の物差しを用いて判断しようとしても不可能です。福音書に記されている通り、マグダラのマリアや弟子たちがイエス様にお会いしたという事実を信じるのみです。

 イエス様はこの世のあり方とは異なる「霊の体」を持って生きておられます。それは、カメラで撮ればそのまま写るという姿ではありません。エマオに向かう途中、同伴者によって、救い主の登場は聖書の中で(当時ですから旧約聖書)約束されていることではないかと諄々に説き伏せられて、求める心が熱くなってきたときに、ついにその同伴者が復活なさったイエス様だと分かったあの弟子たちのように、求める者の目に見えるイエス様です。当初から無関心なカメラのような目の持ち主には、復活なさったイエス様は見えません。
 宗教は信じる心を持つかどうかが問われる世界です。信じる心を持ってこの私の周辺で起こる出来事を眺めれば、信じない心で眺めたたけとは別な解釈をしてその出来事を受け取るということがあって当然なのです。

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