御 言 葉
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマの信徒への手紙 10:9
イエス様のおられた当時、ユダヤの人達は神様に対して非常に熱心でした。たとえば安息日を厳格に守り、神殿にささげるものに神経を遣いました。ですが、パウロは指摘するのです。熱心でさえあれば、それが神様に喜ばれるというものではない。何にもとづいて熱心であるか、何を熱心に求めていくかが大切だと説くのです。
神様は、その一人子をたまうほどに私たちを愛してくださっているのですから、私たちに必要なものを私たち自身よりも先に知っておられます。ですから、私の熱心が神様を動かすとか、私の熱心が何かを生み出すとの思いで祈るならば、やはりそれは自分が中心になっているのです。中心は神様です。神様が私たちのためにこうしてくださったという、神様による出来事から私たちの信仰は始まるのです。
顧みれば、まことに欠けの多いこの私のために神様の子イエス様が十字架に付いて死に、そして復活された。自分の小ささに気づくとき、心からイエス・キリストの十字架と復活にあずかりたいという生活が始まってきます。人間側の行為を重んじるのではなく、十字架によらなければこの私はどうすることもできないと口で告白し、心の底から信じる。その時、私たちはイエス・キリストによって救われ、豊かに恵まれるのです。