赦されている私たち

御 言 葉

 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲む盃を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

   マルコによる福音書 10:38


 キリスト者は人間には罪があると繰り返すが、自分には罪なんて分からない、そのようなことを口に出す人がいます。事実、罪というものは本人には分かりにくいものです。「私はまちがっていない」という思いが誰にでもあるからです。実はこの思いこそ問題です。人間の根深い罪は心の中で正義感というベールに覆われていてなかなかに見えくい。だから、この正義感に動かされて、いいことをしているつもりで、他人の悪口をあることないこと並べ立て、けんかもすれば戦争もすることになる。私が正しく、えらい者になったつもりで、実はひどいことをする。人間の長い歴史において戦争ばかりが続き、今もあり、そして社会悪が絶えない。正義を遂行しているつもりが、実はその正義感の下に根深くいすわっている罪に動かされている。罪は人間の眼にはなかなに見えにくい。しかし、神の眼からご覧になれば、私たちの罪は御子を犠牲にしなければならないほど確かなもので大きく根深いものなのです。神の眼からご覧になれば、正しい人、えらい者など一人もいない。人間は神から罪を赦していただかなければならないような存在になりはてている。そのような存在ですが、御子の犠牲によって私たちの罪は赦されたのです。それによって神と私たちの関係は正しいものとなりました。ですから晴れて私たちは祈ることが出来るのです。過ちを犯させないでください。あなたに従い続ける者とならせてくださいと。イエス様と共にならば、私たちをあらぬ方向に導く可能性をいっぱい持っている正義感に惑わされず、平和への道を歩むことができます。

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