自分だけの体験

御 言 葉

 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

   マタイによる福音書 7:21


 さまざまな経験を重ねて、私のような年齢に達しますと、ついこう思う時があります。自分は大体この程度の人間だ、たいした善人でもないが、たいした悪人でもない、別に人間の道に背いたことをした覚えもない。このような感慨を持ち、ある程度のところで妥協をして安心を得る。これが大人になることであり、年を取ることだとされていないでしょうか。しかし、これはあくまで人間が勝手に思い込んでいることであり、人間の隅から隅までご存知の神から見ればまったく異なります。人間は長い歴史の間にどうしようもないほど頭の先から足の先まで罪にまみれています。ですから、罪をまったく知らない御子イエスが十字架の上で犠牲になり、その血で私たちの罪を洗い流さなければならなかったのです。この十字架により、私たちは罪人であっても、義とされている者、神の怒りの下にある者であっても、しかも神の愛の対象とされた者なのです。神の怒りの下にありながら、しかも神の憐みの下にある私たちです。私たちはこちらの方を真実と信じています。ですから、日々の暮しにおいて、このことに感謝し、私たちのことをすべてご存知の神は、この私に何をお望みなのかと探りながら歩いてゆくのです。このことを胸に深く刻まないで、ただ単に神様、神様と呼びかけるのは無用なのです。

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