弟子に求められるもの

御 言 葉 

 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。

     ヨハネによる福音書  1:39


 神様は私たちのすべてを知っておられる方です。詩編の作者はこう歌います。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(詩編139:7)こういう神様に私たちの生活の隅から隅まで見られています。神様が私たちを四方八方から囲んで、逃れられないようにしている。まるで鉄のタガをはめるようにして私たちを羽交い絞めにしていて、この囲みを破ることが出来ないかのようです。そのような神様に従っていって、私たちの心に平安が与えられるのでしょうか。
 神様の目から見れば、私たちは罪にまみれている存在です。常に見守らなくはならない存在なのです。ですが、そのような私たちのために神様は御子イエス様の潔い血を流すことによって私たちを赦してくださっています。神の子として認めてくださっています。私たちはあくまで罪人であって、しかも義とされている者、神様の怒りの下にある者であって、しかも愛の対象とされた者です。イエス様の十字架を経て、私たちは神様の目にそう映っている者なのです。キリスト者とは、いつもこのような神様の目の前で生活している者のことです。私たちはこれを認め、歩みます。そうしますと、神様にがんじがらめに縛られていると思い込んでいたことが実は逆であり、私たちを一番よく知っておられる方が支え導いてくださっていることに気づき、この方にすべてをお任せしていいと、心は平安で満たされるのです。

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