受難日

御 言 葉

 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。

      マルコによる福音書 15:5      


  金曜日の「受難日」は特別な一つのことを除いて、他とは変わらない日でした。祭司長や律法学者たち宗教人は人々の精神的指導者でありながら、その神学的知識を人々に対するあざけりのために乱用する始末でした。ポンテオピラトのような政治家は、公平にものごとを判定する責任と権威を与えられながら、イエス様の無実が分かっていながら、ただ群衆を満足させるために、死刑という判決を出しました。群衆もいかにも正しい世論を主張しているように見えながら、実は扇動されて見当はずれの熱狂に陥り、「イエスを十字架に付けよ」と叫ぶだけでした。これらのことは当時、そして今も常時生じていることです。これらのことが堂々巡りをしているだけで、人間は真に人間らしく生きられないし、平和はもたらせられません。しかし、金曜日に一つだけ特別なことが起こりました。イエス様の神の御子としての聖さがこれらを肯定することを赦さず徹底的に苦しまれました。また、神の御子としての愛が人々と対立することを望まず、始終黙して徹底的に苦しまれました。私たちの代わりに苦しみ、十字架の上で息を引き取られました。この死によって、あの堂々巡りの輪が一刀両断に断ち切られたのです。私たちはこの出来事により新しい時代に生きているのです。

 説教概要一覧へ