御 言 葉
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙 2:10~11
神様の人間に対しての救いの業は、御子イエス様の十字架と復活によって完了しました。神様はここで歴史を閉じることもお出来になりましたが、そうはなさいませんでした。イエス様再臨の時まで歴史を延長され、私たちは復活を背後にして、再臨に向かって歩むという時間の流れの中に生きています。何故神様はそうなさったのでしょう。実は、神様はイエス様を通しての恵みの業に対して、この時間の中で人間側の応答、感謝、賛美の声をお聞きになりたいと思われたのです。神様は人間抜きで、人間不在で救いの業を終わることを望まれなかった。神様はあくまで人間のための神であることを望まれた。その人間側の応答の中心は、「イエス・キリストは主である」と告白することです。本来ならば、世界のすべての人たちがその告白をすべきなのですが、大多数の人たちはまだそのことを知らない。まず神様によって選ばれて、聖霊を注がれた信徒と、その集まりである教会がその告白を彼らに代わって行うのです。少しでも多くの人たちが告白出来るようにと願いながら。ですから、信徒たちが一定の時に一定の所に集まって礼拝を守るということ、それ自体が「イエス・キリストは主である」という告白そのものなのです。教会はさまざまな業に励みますけれども、主日に集まって礼拝を主のためにささげるという告白こそが中心の使命であり、教会の立っている意義なのです。