御 言 葉
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
マルコによる福音書 15:37~38
イエス様を十字架に追い詰めた人たち、祭司長、律法学者、長老、総督ピラト、群衆、そしてイエス様を嘲った兵士、強盗等々、私たちはこの人たちをあながち批判できません。この人たちはそれぞれに自分はそれなりに良いことをしたと思い、自己満足をしているのです。顧みますと私たちも、人生なんてそのようなものだとあるところで見切りをつけて、自分の生き方を肯定していないでしょうか。ですが、イエス様はそのような人間を肯定できず、人間の隅々まで見ておられたのです。もろもろの不幸を生み出す人間の罪、その罪がどのように根深いものかと苦しまれていたのです。真剣に徹底的に苦しまれました。私たち人間はそのように苦しむことが出来ません。あのゲッセマネの園でイエス様が血のような汗を流して苦しまれていた時、三人の弟子たちは、イエス様の苦しみをある程度感じとり悲しみを覚えながらも、つい眠りこけてしまったのです。人間には徹底しきれないところがあるのです。私たちにもあのイエス様を十字架に追い詰めた人たちや弟子たちと変わらないところがあるのです。イエス様だけがこのような私たちのために真剣に苦しんでくださり、そして、このような至らないところだらけの人間に対して怒り心頭に達し、人間を滅ぼす代わりに、愛により私たちの罪すべてをすくいとってくださって十字架の上で息を引き取られたのです。神はそのことをよしとしてくださり、いまや神と私たちの間の隔てを取り去ってくださいました。その意味で、イエス様の受難日は、私たちにとりましては神の宮に入る祝福の門となったのです。